定義など無い(前編)
多分、今総士が休んでいる休憩室には、総士が一番気に入っている紙コップのコーヒーは無かった。
だから、それを手にして持っていく。
容器がとても熱くて、指先でふちの辺りを何度も持ち替えた。
こぼさないように、それでも冷まさないように、小走りで総士のもとに辿り着く。
総士は、いつものように自動販売機や入り口から離れた、一番薄暗い静かな場所の席に陣取っていた。
顔を見て、目を閉じているだけだとすぐにわかった。
”ここに立っていることに気づいているはずなのに、あえて目を閉じている”
そう直感した。
(からかわれてる)
ここに来ることをあらかじめ予想していて、声をかけてくるのを待っている。
遊ばれている。
「っ・・・・総士!」
憤りの声を上げた瞬間、指先の熱が一気に腕を駆け上がった。
手にしていたコーヒーを落としかけ、歯を食いしばってこぼす直前に椅子付属のミニテーブルに置いた。
指先に残る強い痺れ。
火傷の印かもしれなかった。
「・・・・・・そうし」
不意に、 『痺れた指先を相手に押し付けたい』 そんな願望が頭の中を掻き分けて浮かび上がった。
きっと総士はヒンヤリとしていて気持ちの良いはずだ。
求めるままに、そうする。
総士の頬に、触れる。
・・・・・・指先に感触が無かった。
ほんの少しだけ驚いたけれど、当然だと思った。
総士は神聖なものなのだから触れられなくて当然だった。
そもそもそういうものなのだから、仕方なかった。
けれど指先が震える。
震えが全身に広がっていく。
誰も、総士に触れたことが無い。
総士は、触れられることを許さない。
制服だけが、総士を確かなものにする。
仲間達も、制服の上からならば総士に触れる。
中までは手を伸ばさない。誰も。
総士に触れることが出来るのは自分だけだ。
頬に這わせていた指先を、顎へ、それから首筋へと伝わせる。
赤いスカーフが邪魔になった。
指を離す気は無い。
だから口を寄せる。
体ごと近づいて、総士の足の間に膝を潜り込ませて椅子の上に乗る。
スカーフを噛み締めて剥ぐと、総士の味を感じた気がした。
指を鎖骨へと進める。
それ以上は下へは進まず、肩へと戻る。
肌だけを伝って、背中まで指を入れる。
・・・・・・何も感じなかった。
感じる資格など持っていなかった。
手もそこで完全に止まる。
恐ろしくて進めなかった。
指先だけで触れるには、限界があった。
咥えていたスカーフを、自分と総士との間に落とす。
「・・・・・・ごめん」
そっと指を抜く動作に、謝りの声をのせた。
「もう・・・・・・やめる」
紙コップからのぼる湯気が揺れた。
体は、椅子から降りていた。
「その・・・・・・コーヒー持ってきたんだ。良かったら・・・・・・」
自分がここまで来たのに、総士が目さえ開けてくれないことに不安定な痛みを感じる。
こんな風にしか近づく理由を見つけられなくて、傍に立つのもただの自己満足で。
・・・・・満足すらしていない。
まだ、総士に触れてさえいない。
思った瞬間に胸が張り裂けそうになった。
離れることなどとても出来ず、足が意識からの命令に背いた。
全ての恨みを込めた目つきで総士を睨む。
けれど、目を瞑った総士を見ているうちに、そんな思いもみるみる溶けてしまって、
手にした意志もなくなっていってしまって。
口だけが勝手に言葉を出した。
「俺に、さわって・・・・?」
どうしようもないくらい、胸がぐちゃぐちゃになったまま言う。
どうしてたかだかコーヒー一杯を持って会いに来ただけで、こんな風になってしまうのか。
どうしてこんな変なことを、総士に向かって言ってしまうのか。
わからない。
傍にいたいと思うだけで、こうまでなるなんて思えない。
*** *** *** *** ***
総士の目に自分がうつった。
あまりに突然願望の一部が叶って、全身が硬直する。
声が、耳を打った。
「最近は、会いにもこなかったくせに」
遊んでもいない。怒ってもいない。
静かな声。
それには、答えなければならなかった。
「・・・・・・ずっと、会いに来たかった」
総士のため息が告げてくる。先を促してくる。
”だから?”
「会いたくて・・・・・・会いたすぎて・・・・・・でもきっとこれっておかしいことなんだ。
お前の目を傷つける前だってこんな風に思ったりしなかった。なのにこんな・・・・・・だから、
ちょっとだけでも離れて、落ち着かなきゃならないって・・・・・・そう思ったんだ」
言い訳をしているのではなくて、説明をしているはずなのに。だからこそ言葉だけは次々とでてくるのに、
声が震える。
「なのに離れたら、お前のこと余計に考えてるんだ。全然止められなくて、・・・・・・悔しくて。
もっとまともになってから会いたかったのに・・・・・・ごめん、俺・・・・・・弱い」
口を閉じたとき、総士が椅子から身を起こして、座りなおした。
椅子の背を戻して、直視してくる。
視線が幾分か優しかったのに、見惚れた。
信じられない言葉が、出た。
「幼い頃・・・・・・僕もそうだった」
総士が口にした言葉は嬉しいものであったはずなのに、寂しかった。
「・・・・・・今の話じゃないんだな」
続けようとした総士が、一瞬困っていた。
どうするのかと思っていたら、強引に繋いできた。
「遊び終えることなんて無いのに勝手に日が暮れて、一騎が僕に背を向けるのが悲しかった。
明日が来るなんて思えなくて、今が続いて欲しかった。何度も、一騎が帰っていくのを見送った。
お前は一度も振り返らないで帰るから、安心して見ていられた」
「そうなのか?」
「そうだ。物凄い勢いで走って帰るんだ。それですぐに、建物の間に消えていく」
「見てたのか?」
「面白かったからな。走ってるというより、跳ねてるみたいなんだ。たまに角で曲がりきれなくて大回りを
してただろう?転ぶんじゃないかっていつもはらはらしてた」
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