9、抵抗する
自室の扉を開けた瞬間に目に入ったのは、床に転がる巨大な猫。
部屋の持ち主に断りなく勝手にテーブルを転がして、空いたスペースに我がもの顔で寝そべっていた。
目に留めると同時に、部屋の明かりをつける気すら失せる。
それほどそのモノを嫌悪した。
息をするのでわずかに旨を上下するだけのそれを一瞥して、総士は自分の血で濡れたスカーフと上着を
ソファーに放り、自分はベッドに倒れこむ。
これ以上、一騎に構うだけの体力は無いように思われた。
一騎など見たくも無いほど疲れ果てていた。
会議の後半は、全て何かしら一騎を庇い続けていた気がする。
今回は失敗しなかった、だからなんとか守り通せた。
今日は何より一騎を疎ましく思う。
それなのに、床からの気配に、目を開けることができない。
そこにいるというだけで、希望を持ってしまう。
一騎がこちらに背を向けて横たわっている分、なおさら。
一騎の目が覚めて、床に倒れてる事実に、わけがわからないといった風に飛び起きて、混乱しきった顔
をこちらに向けてくれたら・・・・・。
思いが勝手に体を動かして、見たくも無いはずの一騎を見た。
頭と、背の一部が見えた。
動くことの無い制服の白が、薄闇の中浮かんでいた。
・・・・・・・待つことにすら疲れて。
「首・・・・痛かった」
先に話しかけたのに、一騎はうごかない。
何の反応も返されないことに、簡単に表情が歪んだ。
一騎がそこにいるというだけで、殺したはずの感情がいくらでも甦って溢れだして、始末に終えなくなる。
自分が戻ってしまう。
焦ったのも束の間だった。
体は勝手に動いていた。
一騎に向かって、手を・・・・・・。
触れれば目覚めてくれるかもしれないと身を起こし、手を伸ばしかけてやめた。
触れた途端、手から離れた指が大人しく一騎に咥えられている・・・・そんなビジョンが浮かんで、咄嗟
に手を引いた。
またベッドに沈んだ。
仰向けに転がって、両手で顔を覆う。
「バカな・・・・ことを・・・・・・」
こんな、ありえるはずの無いことまで考えてしまうほど、無意識に一騎を恐れるようになっていて。
一騎を一騎として思えなくなるまでなった自分に気づいてしまって。
そんな自分に、一騎に触れる資格などない。
あまりになさけない。
顔を覆った手の震えを、部屋の薄暗さが嫌味のように伝えてきた。
消え入りそうな自身の声が、耳を打った。
「一騎なんだぞ・・・・・?そんな・・・・」
首の手当てを受け、会議を終え、駆け戻りたいのを堪えて部屋に戻った。
扉が開くと廊下の明かりが室内に差し込んで、自分の影が伸びた先に一騎が倒れているのを見つけて
安心した。
今の一騎なりの”おかえりなさい”だった。
決して認められない涙がこみ上げるほど、ほっとした。
床で寝入る一騎の寝顔が、すこしも変わっていない。
張り詰めていた気が抜けて
一騎の上から倒れこみたいほどに弱った。
*** *** ***
顔を覆った手の甲に、生温かさを感じた。
暖などどこにもない室内であるはずなのに、そこだけ。
それが”何 ”だかわからないはずがない。
わからないはず無いのに、抗わなかった。
手を退けてしまうまで、本当は求めていた。
手をどけ、目を開けると。
鼻先が触れるか触れないかのところに一騎の顔があった。
唇にかかる息が温かかった。
そんな一騎の目が、スッと細まる。
微笑まれたのかもしれなかった。
指など惜しくなくなった。
「・・・・・ずっと床で・・・・寒くなかったか?」
上半身だけ乗り上げてきた一騎に、両腕を伸ばして微笑んだ。
一騎に腕をまわし、抱く。
「風邪でも引くつもりか?」
今まで、何度も通じた言葉だった。
そう思うと、目が潤み始めて閉じられない。
閉じたらきっと、流れてしまう。
「お前が欠けたら・・・・・・」
一騎は、ぴくりともしない。
自分に良い様にされる一騎を抱きしめて、狭い天井に向かって呟く声には、求めた冷静さも、安定も、
なにもない。
「いなくなったら・・・・・・」
ただ甘いだけの泣き声。
それ以上の声が出せない。
「ダメだっ」
ふりしぼってそれだけ言って、さらに腕に力を込める。
一騎は、大人しく抱かれていた。
互いの体温が、互いにしみるまでずっと。
総士の胸に体を預け、目を閉じている一騎の様子は不安などまるで無いかのように穏やかで。
かえって、泣いて喚いて濡れた頬を押し付けてきたときの感覚が脳をよぎって声まで聞こえて。
一騎に救いと自由を与えたくて献身してきたけれど、そんな日々より今の腕の中にいつ一騎の方が
よほど開放されているようで。
一騎からの返事は無い。
言葉が帰ってこない。
どうすればいいのか。
何が一騎のためになるのか。
今までが間違っていたのか。
わからない。
引きずりこまれないように気を使うほど、その勢いは強くて。
自分を保っていかなければならないのに、その先から薄まっていく気がする。
「一騎・・・・・・」
思わず彼の名を呼んで、続けて弱音を吐いた。
「僕が消えそうだ」
そのままの、本当の気持ち。
こんなものは独り言だ。この部屋には、自分しかいない。この部屋に、一騎はいない。
ただ頬を摺り寄せてくる塊しかない。
その筈だった。
なのに言葉を口にした途端、胸の上の彼が体を震わせた。
しくじった。
感じたときには眼球同士が触れあうかと思うほど近くに、広がりきった一騎の目があった。
一瞬焦点があったきり、すぐにぼやけて何だかわからなくなる。
ただ物凄く近くに何かがあることだけを感じる。
あまりに近くて、目を開けていられなくなった。
無抵抗を示すように、ゆっくりと目を閉じる。
ほんとうはそうでなくて、狂った一騎の目を見るのが怖かった。
なのに一騎が名を呼んでくる。
目を開けろと促してくる。
稚拙な音で、名を
「ソウシ・・・」
「嫌・・・だ・・・」
目を硬く閉じる。
絶対にあけない。
この重いものが自分の上から降りていかなければ絶対。
開けない・・・・。
温かくて、やわらかいものが目に触れてきて、溜まった涙を吸うとまた離れていった。
優しく、刺激しないよう、そっと・・・・。
「お前はもう・・・・・辛くないのか?」
一騎の唇が離れていって、ひんやりとした空気が瞼に触れなおした時、思わず言った。
「もう・・・・・僕だけか?」
スッと、胸が楽になる。
飽きたのか、別のものを見つけて興味が移ったのか、わからないけれど一騎が降りた。
そう思いたかった。
一騎の気配は、顔面の上で待ち構えていた。
けっして近づこうとはしないけれど、遠退こうともしない。
ただ確実に、そこに在ろうとする。
一騎の持つ有り余るほどの存在感に、逆に萎え切った自分を見せられた気がした。
「一騎!!」
もっと強く目を閉じる。
一騎が目に指を突き入れてきてもこじ開けられない様に。
おかげでまた一筋ずつ涙が落ちる。
手で探れば、一騎は両腕をベッドに突き立てていた。
そうやって総士の体から半身を浮かせていた、
やはり、離れてくれていなかった。
「ゆるしてくれ・・・」
小さく震えながら言う。
声にもソレが出た。
ソレが一騎は気に入らなかったようだ。
次には、手当てされたばかりの傷に一騎の舌が押し当てられていた。
涌き出てくる唾液が、包帯の下の固まりかけていた血を溶かす。
「いっ・・・・・・」
首の皮を剥ぎ取られたような痛みが走った。叫び声を飲み込むのがやっとだった。
「一騎っ舌を離せっ!!」
一瞬でも早く一騎を突き放したくて、両手で一騎の頭を押さえる。
背が壁についたのを良いことに、関節が音を立てるほど力を込め、一騎を引き剥がした。
もう目を閉じてなどいられない。
何を見てしまうか知らない、頭にはすっかり恐怖が棲みついていた。
痛みが全てを手招きする。
傷を、これ以上深くされないよう守らなければならない。
目を開けた先に、一騎の顔があった。
いつものように笑っていたけれど、唇に垂れそうなほど血が浮いていた。
目は、黒く、大きく開いていた。
影に塗りつぶされて、何も映してはいなかった。
その目で、いつものように笑う。
名を呼んでくる。
「すまない・・・・・もう大丈夫だ・・・・・。僕は消えないから・・・・・・」
蚊の鳴くような声が出た。
体の震えが止まらない。
それ以上は喋れなかった。
一騎の変化に思い当たったのはそれだけ。
微笑う一騎の体から力が抜けた。
だから、寄ってくる一騎の頭部を必死で押さえて突き放していた腕も、自然と折れた、
一度一騎ははなれて、それからまた、笑った。
そして、ゆっくり近づいてくる。
どうしたらいいのかわからなくて、信じられたらいいと思った。
だから一騎が近づくのを許したし、一騎の舌が右頬を這うのも許した。
「一騎・・・・・・」
這う舌の温かさがやさしすぎて、新しく泣いた。
すぐに一騎の舌が、涙を持って行ってくれる。
なのに、舌は勢いをつけて右目に入った。
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