3、噛む


 場違いな水音が、ミーティングルームに響く。

集まった大人たちの大半は慣れたものだと無視うを決め込んでいたけれど、遠見千鶴や要真澄などは表情を強張らせていたし、

史彦の隣に席を占めた溝口は、正面に座る皆城総士にこの上なく失礼な哀れみの視線を投げかけていた。

 総士の左手は机上に置かれている。右手は、机の下に引き込まれていた。

引き込まれた右手の先に、わざわざ窮屈な場所に滑り込んだ真壁一騎がいた。

水音は、引き込んだ総士の右手を彼の舌が這うときにたつ。

たまに一騎は、暗いそこから総士を見上げ、嬉しそうに笑った。

けれど、指に伝った銀糸が途切れる前にまたすぐに夢中になって総士の指を口に含む。

 戦闘があった。特に追い詰められるものではなく。毎度楽にこなしていたはずのものだった。

そのはずであったのに、敵が無差別に放つ歪曲回転体ワームスフィアの一つが、海中の、アルヴィス側面から、キールブロックを直撃した。

外壁が多少抉れただけで、ジークフリードシステムや、ウルドの泉は全く無事であったのだけれど。

それでも、一騎の心が壊れるには十分過ぎたと、誰もが思った。

皆城総士は大丈夫なのだと誰が言い聞かせても、それが本人からであってさえ一騎は聞こうとしなかった。

以来、総士のそばを片時も離れなくなった。

常に総士のどこかしらに触れ、確かめるようになった。

今は、絶対に総士を離さない。

 総士のすぐ隣に一騎の為の席を作ったのにも関わらず、一騎は総士の机の下にスルリと潜り込んだ。

あっという間のことで引きずり出そうとしても頑として動かず、皆が匙を投げた。



*** *** ***



 発言の順が総士にまわった。端末をいじり、メンバーに資料を提示しようにも、手は一騎に引き込まれていた。

「・・・・・・一騎」

放してくれと手を軽く引くと、全体重をかけて引き止められた。

顔を上げて辺りをうかがっても、たいした反応を示されなかったので

「放せ」

わざわざ下を覗き込んでまでして訴えた。

けれど一騎は悪戯っぽく笑うだけで、さらにきつく総士の手を握った。

覗き込まれまでしたことがよほど嬉しかったのか、小さな笑い声まで漏らしている。

薄暗い机の下で、一騎の一際大きな目が、一匹の獣のように光った気がした。

 ここで初めて総士は、困ったように一騎の父親を見たけれど、そちらは動じもせず、目を閉じていた。

本人は総士に気遣ったつもりかもしれなかったが、じっと待つ態度はかえって思いやった相手を追い詰める。

「一騎、放してくれ」

声を低めて軽く睨むと、一騎の体が震えた。

すぐに右手は開放され、総士はついた唾液を一騎のスカーフに擦り付けて拭き取ると、メンバーに資料を送り、報告を始める。

それも終盤に近づいたころ、ズボンの裾が、軽く引かれた。

「総士君?」

声が途切れたことで、続きが促される。

すぐに視線を端末に戻し、途切れた部分を言い直そうとする、が。

雑音が入った。

「・・・ソウシ」

空気が氷に変わった。

何度か雑音が入るたび、刹那の空白が入る。

親の一人が居心地悪そうに身じろいだが、気にも留めずに報告を続けていく。

間に入る雑音に、心が動かされうことは無いと主張するように。

また、いまはそれが求められていた。

 雑音は、総士の指をせがんだ。

史彦は、次の報告に移るよう、別の母親に告げた。

急に名を呼ばれた母親は動揺を隠せないようで、総士はその様子を机上に手を揃えながら冷ややかに見つめていた。

「ソウシ」

 いくら懇願しても求めるものが得られないと気づくと、一騎の声がこれまでの伺うようなものから一変し、総士の呼応を

荒々しく命じるものになった。

口を開きかけた母親は、そのまま口を噤んでしまう。

それぐらいに、一騎の声には得体の知れない情欲が含められていた。

多くの怯えた視線が一度に総士に向けられる。

・・・総士も、耐えたほうであると溝口は思う。

総士が静寂を好むとか、そんなものではない。

この議決しだいで島の行く末が決まり、それは結果、人の生き死に導いていく・・・それをここまで乱されれば・・・。

「煩い」

たった一言だった。

机の下で、一騎に目が見開かれる。

一言で総士は一騎を圧殺し、

親達は一瞬にして燃え上がり、またあっという間になりを潜めた燐火を見た。

「続けてください」

手元に回された資料を見ながら総士は言う。

机の下からは、呼び声の代わりに喘ぎが漏れた。

喘いで喘いで、少しでも総士の目を引こうとしていた。

「一騎、黙りなさい」

さすがに父親からの叱咤が入る。けれどそれにどれほどの効力も無く。

邪魔を感じたのか、いよいよ一騎の声は大きくなった。

総士は、一瞥すらしない。

親達は固唾を呑んで見守っていた。

傍観せざるを得なかった。

その時。

 亀のように首を伸ばした一騎が、総士の足元から顔を覗かせた。

その目に正気は微塵も無く、虚ろに総士の目を捕らえて。

気味悪さに怯んだ僅かな隙に、総士の唇についばむような口付けが降った。

ずっしりとかけられた体重に、一騎に乗り上げられていることを知る。

引き剥がそうといくら力を込めても、一騎は全く動かなかった。

それどころか、名を呼んで引きとめようと口を開けば待ち構えていた舌に入り込まれ、瞬く間に口付けは際どい濃厚なものへと変わる。

・・・誰も動こうとしなかった。

 蒼白となった顔に皿のようになった目でもって、二人の少年の交わりに釘付けになっている。

それを総士は被さってくる黒髪の間から見て取った。

もとから助けを求める気は無いが、自力で解決するには人の目が邪魔だった。

それでもこの分であれば・・・大半が必要な判断力を失っている今ならば、可能であるとも思われた。

 出し抜けに両手でもって一騎の頭部を引き寄せる。

一騎の舌を、自らの舌で押し戻した。

そのまま流れて一騎の口中を貪り食う喰う。

「んっ・・・」

感極まった、満たされた声が一騎から漏れた。

目尻に涙まで浮かばせ、さらに口を開いて総士を求める。

わざと息継ぎを自由にさせなかった。

顔を真っ赤に染めた一騎は、苦しそうに悔しそうに総士から顔を離す。

それからぽすんっと総士の胸に頭を落とし、息をついた。

 見計らったように溝口が咳払いをし、大人たちがいそいそと動き出す。

ぐったりとした一騎が床に落ちていかないよう、総士は両腕で支えた。

「総士君、そのまま床に落としなさい」

すぐさま、狙いをつけたような史彦からの指示が総士に飛んだ。

冷静に徹し切れているのは、実の息子の乱れた姿を目の当たりにしたせいか。

浅薄に逆上しない辺りは、流石といっていい。

「一騎の体はその程度では壊れない・・・そんなに抱きしめていなくとも平気だ」

 ・・・自分の腕が人に見咎められるまでのことをしているとはとても思えなかった。

ところがいざ見てみれば、吐いた言葉類とは裏腹に、一騎を抱きしめているのは紛れも無く自らの腕。

僅かに眉間にしわを寄せた後、信じられないほどゆっくりとした速度で腕の力を抜いていった。

力が緩められることに、不満をあらわにした一騎が唸る。

片腕を一騎から抜いて、総士は、下がっていく一騎の背をそっと撫でた。

まだ一騎が人であった頃、そうすることが一番救われると本人が口にしてくれたことを頼りに、無駄とも思われることを繰り返した。

そうするうちに、じっとうずくまったまま動かない一騎に気づく。

先ほどと同じように一騎の表情を覗き込みたかった・・・が、

正面から睨みつけてくる溝口が、それを許さない。

一騎から手を離し、体ごと発言者に向けるしかなかった。

手を止めると、再び一騎からの唸り声。

「総士、いっぺん一騎をそとに出して来い。これじゃ会議にならねぇ」

やっとだされた救いの言葉に、総士は一騎の父親を見た。

史彦は静かに頷き、総士は軽く頭を下げる。

「・・・静かにしているといったのはお前だろう?」

すぐに椅子を下げ、うずくなっている一騎に腕を差し入れた。

流石に一騎は抱き上げられるほど軽くは無い。

総士が一騎に肩をかすと、すかさず一騎は総士の首筋に顔を埋め、唇を這わせた。

踏み出した総士のスカーフを、口だけで器用に剥いでいく。

姿を見せた肌を、恍惚として舐め上げた。

味わうように何往復かする。

出口まで辿り着いた総士は、震える手で会議室のロックをはずした。

「・・・会議が終わったら、必ず会えるから」

総士が冷たい廊下に一騎を落とそうとした、その時。

 突然上がった悲鳴にその場にいた全員の目が総士に集まった。

見れば、一騎の白い歯が、総士の首に沈み込んでいた。

たちまち皮膚を破った赤い点がフツフツと沸いて一騎の口元に浮かび上がり、耐えきれないほど膨らむと

次々と総士のスカーフや襟に吸われていった。

「一・・・騎、痛・・・い」

総士が弱弱しい声を上げるのと、溝口が勢い良く席から立ち上がるのは同時だった。

溝口が駆け寄ってくる前に、一騎は一度総士から口を離し、そしてさらに深く、再び総士の首を噛み締める。

一瞬力が緩んだ瞬間に、ドッと血が零れた。

痛みを訴える声が、もう一度上がる。

「バカヤロウっ総士だぞ?!!」

辿り着いた溝口が一騎を引き剥がしにかかった。太い指を一騎の口の中に入れ、無理矢理こじ開ける。

開放されたのを感じると、総士はよろめきながら数歩離れた。

喰い破られたばかりの首、抑えた利き手はあっという間に血で染まり、赤は、袖口まで侵食した。

痛みで表情を歪ませる総士を、一騎はきょとんと・・・不思議そうに見ていた。

「あ〜、真壁ぇ、悪いがちっと退席すっぜ?一騎を・・・」

口から喉まで血に濡れた一騎と、呆然としている総士をみやって言う。

最後まで言う前に、腕の一騎が暴れ始めた。

「ソウシッソウシッ」

「お前が噛み付いたんだろうが!」

溝口から抜け出して床に落ちると、一騎は這って総士に寄ろうとした。

動けないでいる総士に抱き、くたりと寄りかかったところで溝口に捕獲される。

「総士っお前の部屋にぶちこんどくぜっその方が一騎も落ち着くっっ」

総士の返事を待たず、溝口は半ば一騎を担ぐように会議室の扉をくぐる。

逃れようと暴れまわる一騎の音が、かなり長い間聞こえていた・・・。




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