2、つねる
午後のシュミレーション訓練のときだけ起きていればいい。
そう思い始めたのは、総士が仕事に飲まれてまるで学校に来なくなってから。
いや、来るには来る。けれどいつの間にか消えている。
傑作な例の一つとして、朝礼のときは確かに学級委員としてクラスメイトの出席を取っていたのに
始業時間にはすでにいなくなっていた。
それどころか、出席簿の自分の場所に自分で欠席欠席マークを書き込んでいくというご丁寧さ。
そうして総士が今日は来ないと知ると、たいてい一騎はその後の一日を机に突っ伏して過ごした。
隣席カノンの痛い視線は止まなかったのだけれど、二日で慣れた。
黒板を見るために顔を上げたらクラス全体が見渡せてしまう。
それが嫌で伏せていることは事実だけれども、そんな弱音を今更誰に言えるだろうか。
ぐったりとしたまま今日も目を閉じ、意識を手放した。
***
訓練が終わり、メディカルルームを追い出されると後は帰るだけ。
帰り道の途中は毎日必ず総士を探している。前CDCの上部にジークフリードシステムがあったときには
帰りに偶然みかけることもあったけれど、最下層キールブロックに移ってしまってからはアルヴィス内でも
ほとんど会えなくて、寂しいし、物足りない。
だから今、ここで会えて凄く嬉しいんだ!!
と仮眠室でぐったりと横たわる総士にまくしたてると、総士は必死の笑みで一騎の言葉を受け止めた。
けれどそれも直に限界を迎え、興奮のままに先を続けようとする一騎を遮ろうとする。
本当だったらいつだって一騎の声は聞いていたいのだけれど、昨夜一晩全てを費やして終わらせた作業
のせいで、唯一見える右目にかかった負担は自室に戻れなくなってしまうほど。
このまま仮眠時間を奪われれば確実に今日の残りのどこかで倒れる自身がある。
・・・そう告げようとして、総士はやめた。
突然総士の座るリクライニングチェアに、一騎が乗り上げてきた。
両肩が、震えていた。
「一騎?」
合図になってしまったのだろうか。
総士が一騎の名を呼んだ瞬間、
総士の頬に落ちてきたのは涙。
***
多少くぐもった声だろうとなんだろうと、総士の声であれば聞けるだけで嬉しい。
そう思った瞬間、両頬を一度に涙が伝っていったのがわかった。
ぼんやりと人の話を聞いていたはずの総士が驚いているのが、かすんだ目に映る。
総士を心配させたくはなくて、なんとかして止めたいのだけれど、涙は意思に反して次から次へとこぼれて行った。
「なん・・・だろ」
頭の中は冷静なのだ。だから笑顔だて浮かべられる。
「おかしいな・・・涙、とまんな・・・」
そっと頬に伸びてきて、涙を拭ってくれる総士の手が温かかった。
「ほんとに、なんでもないんだ・・・。ただ少し。変なだけで・・・」
本当はもっと触れていてもらいたいのをぐっとこらえて、総士から離れる。
自分の袖で、目の辺りを拭いた。
「大丈夫・・・なのか?」
心から心配してくれているとわかる声を聞くだけで幸せになれる。
嬉しさから来る身震いを、体に力を入れて抑えた。
「何でもないって」
「そんなわけ・・・」
食い下がる総士に、乗り上げていたからだを落として強制的に黙らせた。
「邪魔して悪かった。お前はもう、このまま寝ろ。・・・俺は帰るから」
そう言ってしまえば総士からな何も言い返せないと知りながら。
総士の頭を胸に抱いて言った。
「一騎?」
さらに追求してこようとする総士から、とっさに離れる。
一番の笑みを浮かべることで誤魔化しをさらに上塗りしてから数歩下がって・・・。
これ以上構うなと、総士に示した。
総士に背を向けた途端に後悔が襲う。
(嫌・・・だ・・・離れたくない!!)
今度の涙の示すものは、考えるまでもなくわかる。思わず走った。
数列分の椅子の間を駆け抜けると。自動扉がぎりぎりのところで反応し、一騎との衝突を避ける。
駆け抜けて廊下に出、壁に寄りかかって涙を拭いた。
・・・もうこんな衝動的な行動を、何度繰り返したことだろう。
次の行動にだけは出るまいと、座り込んで硬く足を抱いた。
壁にぴったりとつけた腰が次第に冷えてくる。
廊下の奥にある自動販売機のたてる機械音が響いていて、空調の音は天井から振ってきているのに。
一騎の耳にはまるで入ってこなかった。
冷たいということだけは頭のどこかで感じていたけれど・・・。
(蔵前で、翔子で、甲洋だった)
押しつぶされそうな暗さの中で、一騎は一人、思い続ける。
(次が誰かなんて・・・)
本当は、涙の原因なんて全部わかっている。
何が怖くて、何で震えていて、どうしてこんなにまで総士と共にいたいと思うか。
何故毎日、学校に行っては眠るかなんて。
(俺が先なら!!)
次が自分でないことはわかる。
あそこまで快感を得られるものが目の前にあって、どうして次が自分になるだろうか。
では、次は?
(・・・次・・・は?)
わかっている。
(・・・総士)
腰から伝わる冷気が、骨を蝕んで全身にまわる。
総士を前にしていたときとは別種の震え。純粋な恐怖。
ゾッとこみ上げてきた瞬間に、口が勝手に総士の名を呼んでいた。
最愛の人の名が隠しきれずに口から漏れると、足も言うことを無視してふらふらと立ち上がり、
体は仮眠室へと戻っていく。
ゆっくりと近づいてくる人の気配に、仮眠室の扉は容易に反応し、中に入ることを許した。
足元を見ないどころか自分の足にも躓いて。一騎は目指す椅子に近づく。
不安に突き動かされ、取りすがって中を覗いた。
(っ・・・良かっ・・・)
穏やかな総士の寝顔。
規則的な呼吸。
柔らかな頬。
・・・血が伝っていったように見えた。
驚いて仰け反った瞬間、後ろの席に足を取られて転びかけると、跳ね上がった心臓が胸を割ろうとして
あがいた。
椅子の背もたれにしがみ付いて転倒を避ける。
悲鳴を上げようにも喉の奥が切れたようで、抜けた息しか出なかった。
その息がまず落ち着いた。それから興奮、やがて心臓。
ついに意識。
せめて彼の前でだけは強くあろうとしていた決意が、あっという間に萎えていった。
もう、駄目なのだ。
「うっ・・・くぅ・・・・」
意図しなかったはずの嗚咽が漏れる。
目が熱い・・・と思ったときには頬で乾いている場所などなかった。
総士を乱暴に抱きしめて、ずぶ濡れた頬を、総士の頬に押し付ける。
「そぅ・・・しぃ」
硬く目を閉じて名前だけを呼びながら、総士にしがみ付く。
椅子と総士の背との間に両腕を差し入れ、全力で抱いた。
総士が目覚めたのがわかる。
涙で目は潰れてしまっていたけれど、一騎の体が自分もまた、総士に抱きしめられていることを感じ取った。
起きたばかりのかすれ声で、名を呼んでくれる。
夢ではないと、言ってくれているようだ。
「僕は・・・どうしてやればお前に一番良い?」
名の後に、不安げに告げてくる。
大丈夫だといって走り出ていった人間に。泣きに泣かれて抱き起こされれば総士といえど、混乱したに違いない。
「そのまま、俺にさわってろよ」
「・・・さわる?」
訊ね返されて、総士に顔をうずめながら一騎は頷いた。
「それが一番、安心する」
返事の代わりに総士の手は、ゆっくりと一騎の背中を上下する。
少しでも一騎が落ち着くように。
「・・・怖くなった」
散々総士に甘えた後、消える寸前の声で呟く。
「次が総士の番だって思ったら急に」
「・・・何が?」
「いなくなるのが」
途端、総士の手は止まった。
「・・・僕は、一番安全な場所にいると、何度も聞かせたはずだ」
「それでもっ」
言いたいことはある。けれど言ってしまうと本当に起こってしまうような気がして怖い。
「・・・それでも」
見つめ続けてくれていたはずの総士の目が、ふと壁を泳いだ。
視線の先には時計がかかっていたことを今更思い出す。
多分、総士には迫っている予定が何かしらあるはずで、もうそう長い間は一緒にいられない。
言わずにすんだ、ということで、安心している自分もいた。
そっと総士の頬に手を伸ばす。肩や、背に比べたら柔らかい。
「すまないが、僕はもう・・・」
完全に時計を見ながら遠慮がちに総士は言う。
「明日・・・は、学校来るかっ?」
自分などが優先されていいはずはないのに、いくらでも身の程しらずな考えが浮かんでくる。
戒めるために出したのは、大声。
「午後からなら・・・多分」
どもりがちな所を見ると、自信は無いようだ。
構わず何度も来るように告げ、最後にするつもりでずっと触れていた頬を、そっとつねった。
・・・本当は、教室の席は全て揃っていた。
それが一つ一つと欠けていって、今は座られない席のほうが多い。
その中で一つの席だけが、空いたり埋まったりを繰り返しているのが、一騎の席からはよく見えた。
まるで席の主が消えるのを予言しているかのような、点滅。
廊下側の一番前、世界で一番、いとしい人の席。
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