ラムネの瓶
あの暑い盛りに買ったラムネが一本残っていたからと、一騎は空にかざす様にして隣に座る総士に瓶を見せた。
台所の隅に無造作に転がっていた瓶には埃が積もっていて、ろくに拭いもしなかったせいで手が黒く汚れる。
渡された瓶についていた埃を、総士が手の平で拭う。
綺麗な瓶と、中に閉じ込められた宝石が空の明るさに光った。
「開けたらくさってるかな?」
神社の階段で、足をゆるやかにバタつかせながら総士に訊ねる。
「まさか、この前買ったばかりだろう?」
「うん。このあいだのお祭りで買ったんだ」
一ヶ月も前に。
涼しい風が、暑さに混じって腕に届く。
「でも、お祭りで買うものはすぐにくさるから……」
「そんなに変なものは売ってないはずだよ?」
やけに自信たっぷりに伝えてくる総士に、一緒に買った金魚はすぐに死んだのだと教えたかった。
黙りこむ一騎に総士の声が降った。
「きれいだから、大丈夫なんじゃないかな」
僅かに振る。
小さな泡がいくつか湧いて、瞬く間に消えていった。
「飲まないの?」
瓶を手にした総士が訊ねてくる。
無言のまま頷いた。
「栓抜きは?」
無言のまま、半ズボンのポケットから差し出した。
「飲んでいい?」
頷こうとして……やめた。
「綺麗なのに?」
多分、ラムネが入っているからここまで綺麗なのだ。
それがなくなってしまったら……多分。
「総士、飲んだらゴミになっちゃうよ?」
急に、そのまま再び台所の隅に転がしておきたくなった。
定位置……というか、あの位置にこの瓶が無くなったら、少し寂しいような気がした。
「それに、もうぬるいよ?きっと」
「中の、ビー玉が欲しいんだ」
総士の声が、降った。
もう仕方が無い気がした。
「そのビー玉は出せないよ」
台所の、汚い隅にラムネの瓶を元のまま戻したかった。
「そういう仕組みになってるんだ」
総士の顔を見る。
総士は一騎の方など見向きもしないで、瓶の中のビー玉に夢中になっていた。
でもそれは、どうやっても取り出せないものだ。
指をいれて掻き出そうとしても、指が抜けなくなってしまう。
そこまでしても指先が触れるぐらいしか許されない、宝物のビー玉だった。
普通に売っているビー玉と比べたら、少しだけ小さくて、瓶と同じ色をした、地味なビー玉。
でも、珍しかった。
みんなが欲しいくらいに。
決して触れないから、とてもとても、欲しくなった。
みんなの宝物だった。
「瓶を割ればいいよ」
突然の声。
目を丸くして総士を見つめる。
「だから、飲もう?」
総士がまっすぐこちらを見てくる。
逆らえず差し出した。
総士が受け取る。
音をたてて蓋が飛んだ。
「買ったのは一騎だ」
先に渡される。無理矢理飲む。もう台所には転がせない。
温い味がした。
総士に渡す。
総士が最期まで飲む。
そして。
割った。
普段の総士からは想像がつかないほど乱暴な無造作。
鼓膜を打つ音に思わず耳を塞いだ。
瓶の底は割れたのに、肝心のビー玉のところはそのままだ。
そのままの場所ごと総士は拾い上げ、そのまま階段の下の道路に向かって……たたきつけた。
割れる。
ビー玉が跳ねる。
ガラスとビー玉が綺麗だった。とてもとても、綺麗だった。
総士が階段を下りていく。
道路の隙間で動きを止めたビー玉を拾う。
指先でつまんで、一騎に突き出す。
「取れた」
ちょっと割れたけど……と付け加えながら。
その時の総士の笑顔といったら……。
***** ***** *****
『お前はビー玉なんだ』
総士に伝えようとして口を噤む。
あんな昔の小さなことは総士は忘れているはずだった。
けれど今、敵はみんな総士を欲しがっていて。
決して取れないのはわかっているのに欲しがっていて。
総士は決して地下の隠れ家から出てはいけなかった。
そんなことをしたら。
取れないビー玉は。
瓶を割られて。
敵がどうやって総士を取り出すか、わかる気がする。
「ちょっと割れたけど」
そう言って突き出されたとき、自分が正気でいられるとは思えない。
生きていられるとも思えない。
それを考えると、とてもとても恐い。
恐すぎて、総士に縋りついた。
『大丈夫』と、あの時と同じ顔で笑う総士が恐かった。
お前の考えがあいつらに近いなら猶更。
END