海の中の蒼い風船 下編


 いろいろあったけど、ほとんど覚えていない・・・と言うと、ベッドの隣で総士が笑った。

「一騎が丈夫で良かった」

「丈夫って言われたって痛いもんは・・・・」

「痛いだろうな。だが、普通だったら浜に上がる前にショック死の可能性もあったなんて言われたら僕だって・・・・」

「遠見先生に内緒でベッドに上がりこんでくる?」

茶化すと、昼間の総士はどこにもおらず擦り寄ってくる。

あんまりにも嬉しくて、それに関して何か言うのはやめた。

代わりに、そっと総士の頭をなでた。

「乙姫ちゃんは刺されなかったのか?」

「ああ。今は、立上に付き添ってる」

「・・・・・・素直じゃないのに心配性だな、お前達兄妹」

「ありがとう」と言われた後に、どうして良いのかわからなくなる総士がとても可愛いと思う。

微笑んでいると、総士の冷たい指先が腹にあたった。

「・・・酷く腫れてる」

「これでも大分治まったんだ」

「そうか?」

その指が、腫れていない部分をなぞる。

総士の視線もそれ、気がつけば熱心に腹を見つめていた。

「俺の腹・・・つまらないと思うんだけど」

できれば顔を見ていて欲しくて呟いた声はあっさり無視される。

「つまらなくはないさ・・・・ここが元気な部分で・・・・・・」

総士の視線の先を目で追うと、総士の指がまだ肌色の部分を撫でていた。

「ここは元気じゃない」

突然、遠慮がちに触れてきていた総士の指が傷の上を直接触った。

止める間の無い行動に、思い切り顔をしかめる。

けれど何故か、何も言えなかった。

「可哀相に・・・・この部分の・・・一騎」

「部分とか言うなよ」

「ん・・・・・・」

喉を鳴らすような返事と共に、総士の指先が離れる。

触れられていた場所が余韻に強く痺れた。

そしてその余韻すらやがては消えてしまうことが、とてつもなく悲しく思えた。

「じゃあ僕は、部屋に戻る」

すぐに落とされた言葉が、湧いたばかりの気持ちに拍車をかける。

何故そんな思いにとり憑かれたのかはわからなかったけれど、このまま総士に去られてしまったら、自分は間違いなく

大損をする。

理性にとどめを刺すような思いだった。

にわかに胴震いがおこり、その震えが止まる前に去ろうとする相手を呼び止めていた。

しかも酷く、乱暴な手段で・・・・・・。

 咄嗟に身を起こして、総士の腕を制服の上から握り締める。

それから思い切り強く引き寄せた。

引き寄せた後、どうするかなんてまるで頭に無かったのに。

鼻先まで総士の顔が近づいた瞬間、何をしようとしているか理解していた。

ただ、予想外だったのは

たかだか肌の表面だけの理不尽な傷が、的確な邪魔をしてくることだ。

総士を引き寄せた瞬間に、腹を中心として、胸や腕、背中にまでうねった傷が一斉に非難の声をあげた。

一瞬にして起こった肌のざわめきを堪えきろうと息を呑んだのだけれど、それでは足らず、痛みが表情まで浮き出た。

 不思議な感覚だった。

腫れあがっているのは皮膚の表面だけであるはずなのに、痛みはもっと深い場所からせり上がってくる様な

一つ一つバラバラである筈の腫れが繋がった一つの大きな傷である様な。

触手に触れたとき、同時に焼き付いたはずの針が肌の下に潜り込んで取り除かれないまま、この時になって漸く体中に毒を

まわし始めた。

そんな風に漠然と感じた。

「合図を出したの・・・総士か?」

詰まる息の合間に、できるだけはっきり聞こえるよう問いかけた。

今までなんともなかったのに、ここまで急に苦しくなったのは総士に触られたすぐ後だ。

「何のことだ?」

「刺された場所がすごく痛くなった」

総士が離れたそうなそぶりをした。

だから放した。

このまま行かれても、文句は言えなかった。

でも、総士は、離れないでまたベッドに乗った。

「僕のせいじゃない」

「触ったのに?」

「興味があっただけだ」

「腹にどんな興味があったって言うんだよ」

「お前を守るようにして在るくせに、お前を守って傷ついて、そうしたらお前が、『痛い』と言った」

「それが?」

「こんなに立派な成りをしてるのに、薄皮一枚剥ぐだけでゼリーみたいだ」

「・・・・・・舐めたってしょっぱいだけだぞ」

触っていた総士がついに舐めに戻ってきたのだと、なんとなく思ってそう言った。

そんな気配が総士には在るように思えて、自然と口をついで出ていた。

『しょっぱい』と言って止めなければ、かじられてしまうと

本気で思った。

いや、不味いと言うだけではまだ足りない気がする。

「それに、腹って腹筋とかあるから、硬くて噛み切れないと思う」

拒んだ途端、また痛みが走って顔が歪んだ。

総士に剥けた上から爪を立てられていた。

「こんなに弱いのに?」

「弱くない。その下に、もっと強いのが・・・・・・ある」

「在るか無いかわからないぐらいの触手に撫でられただけでここまでズタボロになるのにか?」

「な、そんなの、刺されたらどんな奴だってなるだろう?!!」

「僕が刺されたとして、ここまではならない」

「それはたまたまデカイ奴とぶつかったからで・・・・大体総士!さっきから何やってるんだ!怪我した場所、触ったり

爪たてたり!」

 波が退いた気がした。

穏やかな海が、あっという間に遠退いてしまったような。

信じられないといった表情を浮かべて、目の前で総士が止まっていた。

その総士を認めると、また悔しさが湧き上がった。

「俺・・・また間違えた?」

そんな気は少しもない。

自分は痛いことばかりされていて、しているのは総士だ。

だったら悪いのは総士で、多少相手に声を荒げられたとしても当然のことで・・・。

こんな顔をされるいわれは無い。

けれど、総士の表情一つで自信が失せるのもまた事実で・・・・・・

「何か・・・お前にとって酷いこと・・・した?」

自分にとって何でもないものが、相手を傷つけることはよくある。

生きているうちに当然のようにしている仕草が、何か最低な行為だったのではないだろうか?

返って来る返事がわかっていて、そう聞いた。

「・・・して、ない」

「そう?」

慌てて今日の記憶を辿る。

海で泳ぐまではいつもの通りだった。

海で、クラゲの騒ぎがあって、総士が勝手に行こうとして、止めて、安全な浜にまで泳いで逃げて、そこで自分は刺されて

総士は助けを呼びに行ってくれて、出来る限りの手当てもしてくれて、

・・・・・・一方的に尽くしてくれていた。

 次の言葉で全てが決まってしまう気がして、何もいえなかった。

正解を言えないと、大事な相手を傷つけてしまうのに何も見つからなかった。

今だって逃げようとした総士を慌てて捕まえている。

正しい答えを言えれば、手を放さずに済むのに。

きっと放さなければいけなくなる予感が、ますます頭の働きを止めた。

人の怪我をした箇所なんて、そっとしておくべきだろうに。

今までだって目立った怪我こそしなかったものの、常識のある総士だったらまず触れない。

でも今回は、触れるどころか、恐らく舐めようとまでしていた。

「・・・・・・不安?」

無い脳味噌を掻き回して出した答えは、自信の無さに消えそうだった。

根拠も何もあったものじゃない。

ただ以前、不安だとやっとのことで言ってくれた総士の印象が強すぎて

今回ももしかしたらそうなんじゃないかと、勝手に期待した。

 総士が微笑む。

合わせてこちらも微笑んだのに、ベッドが軋んで総士が立った。

「総士?」

「またな」

失敗したのだからこれ以上とめる資格などないと思った。

悲しいとは思ったけれど、黙って総士を放した。

失敗した筈なのに、どこか穏やかな、何故か安心したような少し嬉しそうな総士に、

よっぽど傷つけたのではないだろうかと勘ぐって。

 ちゃんと総士の望むことをしてやれなくて、愕然としながら総士を見送る。

ドアが閉められた時、また総士に離れられてしまった自分が情けなくていつまでも総士の消えた場所を見つめていた。

身のほど知らずな考えばかり浮かべていたくせに、欲しがってばかりいたことが情けない。

 総士に「気持ちが悪い」と言われた時と同じく、目の前が真っ暗になった。

前後不覚になって枕に顔を押し付けて

もはや死にたいと思ったのは今日二度目。

「酷いこと言われてるの、俺じゃないか」

呟く声も、枕で消えた。

「またな」なんて、あんなに必死で捕まえているのがわかって言えるだなんて、気持ち悪いなんて簡単に言えるだなんて

人を何だと思っているのだろう。

素直にものが言えないクセに、とんでもない爆弾ばかり投げつけてくる。

かと思えばいつまでも昔のことをぐだぐだと引きずって、許すなんて口先ばかりで・・・。

 そこで初めて気がついた。

(総士・・・・俺の腹見て、『気持ち悪い』って言ったんだ・・・・)

あのときは、自分でも気持ち悪いと思った。

総士には慰めて欲しかったのに、寧ろとどめを刺されて・・・・

(まさか・・・・)

突然襲った閃きに身を起こす。

先ほどと変わらないはずの痛みは、全く気にならなかった。

どうして良いのかわからない。

気がついたときには、総士はとっくにいなくなっていた。

(『気持ち悪い』って言ったから・・・・・・)

さっき、自分は失敗したのだからこれ以上総士をとめる資格など無いと思った。

(もし、総士が・・・)

失敗したのだから、これ以上何かを言う資格は無いと思ってしまっていたら?

それで、

(だから大丈夫だって・・・・・・)

 総士の指の感触が、突然甦った。

触って、触るだけではなくて、爪が立つぐらい強く押してきた。

舐めようとまで、した。

「お前・・・俺が忘れてたから、ほっとした?」

それで、余計なことを思い出される前にさっさと退室したわけだ。

なら、明日会ったとき、「もういいよ」って言わなくちゃ。



******  *:******  *****:*



 翌午後にはカサブタまで剥がれていた。

廊下で総士を捕まえて、空き部屋に連れ込む。

いぶかしげな顔をする総士を前に、ちゃっちゃと制服の上を脱いで腹を見せた。

「治った」

そのあとの総士の顔は、絶対に忘れられないと思った





 

END