奥の洗面所から水が出しっ放しにされている音がする。

明かりもつけていない総士の部屋、机上の端末だけが、目を痛めつける光を放ち、届く範囲を照らしていた。

部屋の主の居場所は、水音でわかる。

すぐそちらに足を向けた。ところがふと、どういうわけか魔が差して。

小さな機械音をたてる端末を見た。

 目を細める。

あのキーボードや、机の表面についているものは一体なんだろうか。

一度水音のする方を見た。

奥にいる総士よりも、暗さでよく見えないシミのほうが気になった。

首を戻して、一歩ずつ近づいていく。

 一歩足を進めるごとに、肺を潰す力が増した。

締め付けられた肺は徐徐に血を噴出し、腹の中に血はたまる。

不安と血が溜まりにたまって腹はもう、妊婦のようだ。

腹が重くて歩けなくなる。耐えられなくてへたり込んだ。

机は目の前だった。片時もそこから目が離せなかった。

どう見たって端末のキーや机についているものは血で。

しかも宝石のように膨らんで、端末からの光を反射しているから。

 あまりの痛みに腹を抱えて床に突っ伏す。

すべきことは一つしかない。

腹が完全に膨れ上がって裂ける前に助けを呼ばなくては。

誰かに。一番近くにいる総士に。

腹はもう、人の持つべき形をしていない。

こんな形は見たことがない。

腹が血で潰れる。

痛い、痛い、痛い。

自分が?

誰が?

違う。

床に腕を突き立てる。

そこを中心に全力で身体をねじった。

薄くなるまで膨れ上がった腹の皮。一気にはじけ、下半身全てが消える感覚。

机についていたのとは比べ物にならない量、腹の血がぶちまけられる。

 途端からだが自由になった。

許された疾走。

可能な限り強く床を蹴って、奥の・・・奥にいる総士のもとへ。

 蛇口を吹き飛ばす勢いの水。

求め人は、洗面台の端に片手をついて、空いた手で顔を洗っている。

しつこく、何度も、何度も。

「総・・・士?」

あまりに不自然な総士の動作に立ちすくんだ。

足が止まって、何とか搾り出した声は、総士の耳には届かなかったようだ。

繰り返し、同じ動きを続けている。

震える手で明かりを探った、

見たい、見たくない、見なければ震えが止まない。

指がスイッチを押した。

・・・・・・夢を見ているようだ。

洗面台も、何度も水で顔をぬぐう総士の手も、全てが真っ赤だ。真っ赤だ。真っ赤だ。

不安がその通りだった。

目の前にある。

 一瞬だけ総士がこちらを見た。

そうしてすぐに笑った。真っ青な顔で。

「初めてだ・・・・・・こんなに出るとは思わなかった」

何が?だってそれは血だろう?

総士の。お前の血だろう?

話す間、総士は顔を洗う手を止めていた。

鼻を抑えた指の間から、水で薄まった血が、次々と手首に伝っていった。

気づいた総士が、水で再び顔をぬぐう。

「なんでもない。ただの鼻血だ」

言い訳のように、合間に呟きながら。

 なんでもなくは、ない。それは多すぎる。

洗面台に駆け寄って蛇口を閉める。隣にかけてあったタオルを掴むと、総士を引きおろすようにして床に座らせた。

鼻にタオルを押し当てる。

「お前、水なんかで洗ってるから止まらないんだ」

といってはみたものの、自分だって鼻血なんかだしたことはないから、手当ての仕方など知らない。

本当にこの手当ての仕方が正解なのか不安だった。

馬鹿だなっと笑い飛ばす声が、胡散臭さの塊になっている。

こちらの息のほうが上がっていて、押し殺して、やがて血が完全に止まってから、先を続ける。

「血とか・・・吐いてたらどうしようかと・・・・・」

のはずなのに、声が震えて最後までいえなかった。

「僕が血を吐く原因が何処にある」

ポンポンっと軽く頭を叩かれる。

総士に言われると、自信の全てを失った。

「えっと・・・フラッシュバック・・・とか」

しどろもどろに言うと、笑われた。

「フラッシュバックで血は吐かない。僕の体が勝手にパイロットの感じた痛みを繰り返すだけだ」

総士の声色があんまりにも優しくて、それだけで安心する。

腰が砕ける。

「大丈夫・・・なんだな?」

「コーヒー、飲みすぎたかな?」

思い当たる節を探しているのか、総士の視線は宙を彷徨っている。

その弱弱しさと、顔色の悪さは明かりの下で嫌でも目に入った。

「立てるか?貧血?」

肩を貸して、ベットに連れて行く。

その途中で、総士の足が止まった。

グンっと肩にかかっていた重さが増す。

見れば、目を硬く閉じて口を手で覆っている。

そのまましゃがみこんでしまった。

慌てて声をかけても、返事が返らない。

「吐きたい」

やっと返ってきたかすれ声がそれで、慌ててゴミ箱を探す・・・。無い。

洗面器を取りに、風呂場も見る・・・が、やはり無かった。

止む終えずバスタオルを引っつかんで戻れば、総士は体をくの字に折り曲げてうつぶせてしまっていた。

抱き起こして体を壁に寄りかからせ、胸の辺りにもってきたタオルを広げた。

「総士、ここに・・・」

 言うまでもなかった。

タオルを腕の間に広げた途端、一気にタオルの重みが増した。

匂いもたつ。

総士のとった夕食が、なんとなくわかった。

「全部、全部吐いていから」

 タオルだけでどうにかできるはずはなかったけれど、ぶちまけてしまうよりはマシだ。

何度かにわけて、吐ききったとは思う。

ひとまず総士をそのままに、タオルを風呂場に持っていき、排水溝の中に中身をシャワーをかけて流し込んだ。

詰まらないようシャワーは出しっぱなしで、ひとまず総士の元に戻る。

帰りがけに、洗面所で水をくんだ。

「鼻血で死んだらアホだぞ」

それだけ言って、水を手渡すので精一杯だった。

あとは震え上がってしまって、何もいえない。

怖かった。本当に吐くなんて・・・・・・。



*** *** *** ***



 翌朝、隣のソファーで眠っていた一騎を、学校へと追い立てる。

けれどメディカルルームまでついて来られて、一緒にいるいないで危うく喧嘩になりかけた。

ぎりぎりのところで一騎をなだめて、背を見送る。

 奥にいる遠見千鶴の元に、まっすぐ向かった。

率直に告げる。

「フラッシュバックの薬を、以前のものに戻していただけないでしょうか?」

「やっぱり・・・少し強すぎたかしら」

「昨夜、吐きました。鼻血も・・・」

最後まで聞かず、千鶴は薬品棚に歩み寄る。

いくつか手にし、さらに奥に引っ込むと、数分かけて戻ってきた。

手には、見慣れた瓶。

 笑顔で。

微笑んで薬を受け取るはずだった。

その後、ひとまず場を和ますために、他愛も無いことをしゃべって、退室して・・・・。

自分にはできるはずだった。

なのに、瓶を受け取ろうとした手が突然動かなくなって・・・。

蛍光灯を反射する床の上に、瓶が転がった。

誤魔化さなければ。

何か言わなければ。

けれど遠見千鶴とはしっかり目が合ってしまっていて、もう動かせなかった。

・・・・・・体が震え始める。

これだけで、どれだけの心情と同様を明確に伝えてしまっただろうか。

「僕は・・・大丈夫です」

 パイロット達には絶対聞かせられない声が出た。

その声に相手も我にかえったらしく、ようやく視線に力が戻った。

「ええ。そうであって頂戴」

あからさまな威圧。

ここで笑わなければ。笑っているつもりだけれど、笑えているだろうか?

刺すように冷たい瓶を拾い上げ、逃げるようにメディカルルームを出た。

その時ぶつかったのに、千鶴は動かなかった。

 自室まで走って戻る。手にした瓶の中で、錠剤が音を立てて存在を教える。

できるものなら投げ捨てたい。できたら・・・・・・。

 フラッシュバックで血は吐かないし、死ぬことも無い。そのために飲む薬だ。

死、以外の何を避けるために、誰がすすんでこんなおぞましいものを飲むだろうか。

 自室に逃げ込むと、昨晩の一騎を思い出した。

自分だって蒼白になりながら、手で受け切れず床に垂れた血や、汚物の世話を全部してくれた。

彼の電池だって、いずれ切れるのに。

こんな嘘つきのために、あんなに一生懸命になってくれた。

その優しさに、報いることができないのが、若干寂しい。

 死なないために飲む薬で、こちらもあまり、一騎に後れを取ることは無いだろう。

もしかしたら、少し早いかもしれない。

そのほうが、良い。

・・・きっともうじきだ。

END


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